吉永小百合の若い頃はサユリストと呼ばれるファンがいるほど可愛い!昔の清純派の時代をまとめてみた

1957年にラジオドラマ『赤胴鈴之助』でデビューしてから現在(2020年)女優として60年以上活動している大女優・吉永小百合さん。

吉永小百合さんのことは老若男女問わず有名ですが若い頃がどんなだったか知らない方はけっこういらっしゃるのではないでしょうか?

現在(2020年)吉永小百合さんは75歳になられていますが驚くほど美しいですよね。

ということから若い頃もめちゃくちゃキレイだったというのは容易に想像がつきますが調べたところ想像を超えるくらいキレイだという事が分かりました。

そして幼少期は壮絶だったようで様々な経験をしている吉永小百合さん。

吉永小百合さんの昔の事や、若い頃がどれだけきれいだったのかを調査してみました

吉永小百合の若い頃は超美人!昔の顔写真まとめ

吉永小百合さんは1945年生まれなので現在(2020年)75歳になられていて世間でいえばもうお婆ちゃんの年齢ですが見た目からして40~50台に見えます。

吉永小百合さんはこれまで数多くのドラマ、映画に出演していて女優という分野では実績・キャリアで敵う人はいないのではないでしょうか。

そんな吉永小百合さんは10代の頃から女優として活動していますが、今もキレイですが昔は信じられないくらい美人です。

ではまず吉永小百合さんの若い頃(40歳まで)の写真を見ていきましょう

10代の頃の吉永小百合

少女時代の吉永小百合さん。

今見ても可愛いといわれるレベルですよね

15歳の時の吉永小百合さん。

これはおそらく小学校くらいの時の写真。

少女とは思えないくらい凛としています

20代の頃の吉永小百合

着物姿の吉永小百合さん。

今も昔も変わらず着物が似合います

白黒の写真でこのクオリティはヤバいですね

20代の頃の吉永小百合さんも10代の頃と変わらずキレイでありむしろレベルアップしているように思います

30代の頃の吉永小百合

30代となると若い頃と言っていいのかは分かりませんが吉永小百合さんは30代になっても変わらずキレイですね

36歳の頃の吉永小百合さん。

昔の吉永小百合さんはめちゃくちゃキレイだということが分かると思います。



吉永小百合は若い頃『和製オードリーヘップバーン』と呼ばれていた

昭和のスクリーンを彩った吉永小百合さんはその可愛らしさと清楚なイメージから若い頃は『和製オードリーヘップバーン』と呼ばれていたそうです。

オードリーヘップバーンはイギリスの女優で『ローマの休日』などに出ていた今でも語られている女優です

確かに昔の吉永小百合さんは雰囲気も似ていますから『和製オードリーヘップバーン』と呼ばれるのも納得がいきます。

吉永小百合は幼少期は活発な女の子だった

吉永小百合さんといえばかなり落ち着いた感じのイメージをお持ちの方もいるのではないかと思いますが、幼少期は活発な女の子だったようです。

吉永小百合さんの父親は戦時下の統制団体の情報局に勤務していて母親はピアノ教師だったようで3人姉妹の次女として生まれています。

当時から小柄な体格だったにもかかわらず男の子とばかり遊んでいて男の子しか参加できない相撲大会に出たいと駄々をこねていたようで昔はかなり活発だったようです。

ちなみに5歳年上のお姉さんは東京教育大学(現・筑波大学)を卒業し都庁に入ったそうで妹は東京芸術大学を卒業し小学校の先生をしているそうです。

父親が事業に失敗し母親が生計を立てていた

1945年に第二次世界大戦の終戦を迎え、その後映画ファン雑誌「シネ・ロマンス」を刊行していた吉永小百合さんの父親の事業が失敗しています。

そのためピアノ教師をしていた吉永小百合さんの母親が歌を詠んでは新聞やラジオに投稿し一家を支えていたそうです。

ちなみにその時、朝日新聞の『ひととき』という欄に採用されれば原稿料1500円がもらえたそうです。

当時の1500円というのは今でいえば3万円くらい。

吉永小百合さんは昔、米びつがほとんど空になるほど生活は苦しく1枚のスカートを2年間も吐き続ければならないほど極貧だったそうです。

それだけじゃなく税務署から家具などを差し押さえられ赤紙を貼りに来た税務署員に対しハタキを手に立ち向かっていたそうです。

これだけ極貧の幼少期を過ごした吉永小百合さん。

昔は相当苦労をしていたことが分かります。



吉永小百合が演劇に興味を持ったのは小学5年生の時

吉永小百合さんは昔、極貧生活を送っていたことが分かりましたがそんな中転機が訪れます。

吉永小百合さんが小学5年生の時に医療少年院に出向いたときの学芸会でお母さんウサギの役を演じるとそれを見た少年達が涙を流して見てくれたそうです。

そのことから演じることに興味を持ったようです。

吉永小百合のデビューはラジオドラマだった

今では映画のスクリーンなどで吉永小百合さんを見るのは当たり前ですが、吉永小百合さんのデビューは『ラジオドラマ』でありスクリーンデビューではありません。

ラジオドラマと聞いても「何それ?」って思う方は結構多いでしょう。

簡単に言えば音声のみのドラマという感じで今でいえば声優に近いですかね。

吉永小百合さんがラジオドラマでデビューしたのは1957年1月6日。

当時11歳の頃です。

「少年画報」に連載中だった人気漫画「赤胴鈴之助」をラジオドラマ化するにあたりヒロインの千葉さゆり役を一般公募にて吉永小百合さんは見事合格しています。

吉永小百合さんは当時から『天下の美少女』と呼ばれていたそうで声も透き通っていたそうです。

この時から吉永小百合さんは美少女で昔から今に至るまで美人だったというのが分かります。

吉永小百合は若い頃、サユリストと呼ばれるファンがいて社会現象になった

吉永小百合さんのデビューはラジオドラマでありスクリーンデビューしたのは1959年の松竹映画『朝を呼ぶ口笛』

この時吉永小百合さんは中学生。
その後『日活撮影所』に入社されています。

そして吉永小百合さんが脚光を浴び始めたのは『拳銃無頼帖』シリーズの第二作目の『電光石火の男』で主人公の丈二を慕う少女役で出演しています。

この時は脇役だったのですが吉永小百合さんは美少女ぶりが注目を集めます

たしかにこれ見たら「誰?」ってなりますよ。

その後『拳銃無頼帖』シリーズ『不敵に笑う男』では準ヒロインに抜擢されスターへの階段を上がっていくことになります。

サユリストと呼ばれるファンが誕生したのは1961年

吉永小百合さんは1961年には16本もの映画に出演し人気が急上昇しています。

この時に『サユリスト』と呼ばれるファンが現れ社会現象を巻き起こしています

芸能人でもタモリさんがサユリストだということで有名ですよね

タモリさんは熱心なサユリストとして知られていて「笑っていいとも!」の「テレフォンショッキング」はタモリさんが友達の輪で憧れの吉永小百合さんにたどり着くことが目的だったそうです。

タモリの「サユリスト」としての歴史は筋金入り。さらにタモリは、何としても会いたいと思い、学生食堂のおばさんにリサーチをかける。その結果、週に2回は友人たちと夕食に訪れ、メニューは決まって中華丼だと聞き出す。

「それから10日ほど夕方6時になると学食に来て、中華丼を食べ続けたけど、会えずじまい。坂道を『小百合さまぁ~、小百合さまぁ~』って叫んで帰ったさ」

引用元(Asagei+

今でもこれだけ愛されている吉永小百合さんは昔相当な人気があったことがわかります

吉永小百合がスターになるきっかけは映画『キューポラのある街』

そして吉永小百合さんがスターとなるきっかけになったのが1962年に吉永小百合さんが出演した映画『キューポラのある街』

この映画で少女ジュン役を演じています。

この『キューポラのある街』の監督は浦山桐郎さんだったのですが吉永小百合さんを主演に使う事に難色を示していたようです。

理由はこの映画は労働者を題材にした映画であり『貧乏』というものがテーマだったのですが吉永小百合さんのことをお嬢様だと思っていた浦山桐郎さんは吉永小百合さんに対し「貧乏について考えてごらん」と質問をしたようです。

しかし吉永小百合さんは上記でも説明しましたが幼少期から極貧生活を経験しています。

なのでこれまでの吉永小百合さんは貧乏だったのでこの懸念は懸念は杞憂に終わったのは容易に想像がつきます

この映画にて吉永小百合さんは『ブルーリボン賞主演女優賞』を受賞しています。

吉永小百合は当時『日活三人娘と呼ばれていた

吉永小百合さんがブレイクしたのは1960年あたりでありこの時、吉永小百合さんのブロマイドがあまりに売れていて店頭から姿を消していたようです。

そして松原智恵子さんと和泉雅子さんと合わせて『日活三人娘』と呼ばれていたようです。

吉永小百合さんは若い頃、今でいうと超人気アイドルばりの人気を誇っていたわけです。

しかも実力も兼ね備えているという事からヤバいですよね。

昔はブロマイドがどれくらい売れていたのかは分かりませんが、これだけ見ても吉永小百合さんは若い頃から凄かったというのが分かります。



吉永小百合は若い頃、女優だけじゃなく歌手としてもブレイクしている

吉永小百合さんは1962年に映画『赤い蕾と白い花』でも主演を務めていますがこの映画の主題歌『寒い朝』で歌手デビューをしていてレコード売り上げ20万枚の大ヒットを記録しています。

さらには橋幸夫さんとのデュエット『いつでも夢を』も30万枚のヒットとなっています

この時吉永小百合さんは17歳。

吉永小百合さんは女優だけじゃなく歌手としても成功を収めています。

そしてこの年にはレコード大賞を受賞し紅白歌合戦にも初出場を果たしていて人気が急上昇していることが分かります

吉永小百合は若い頃、浜田光夫とのコンビでヒットを連発していた

吉永小百合さんは1960年に映画『ガラスの中の少女』で初めて浜田光夫さんと共演していて上記で説明していた『キューポラのある街』でも浜田光夫さんと共演しています。

この2人の純愛映画は軒並み爆発的なヒットを記録しています。

吉永小百合さんと浜田光夫さんが共演しヒットした映画をまとめると

2人でコンビを組みヒットした映画
①泥だらけの純情(1963年)
②光る海(1963年)
③美しい暦(1963年)
④愛と死をみつめて(1964年)
⑤私、違っているかしら(1966年)

当時、日活での主力は石原裕次郎さんでアクション映画が主流でしたがマンネリ化していたこともありそこに吉永小百合さんと浜田光夫さんの純愛映画がヒットをしたことで二人のコンビ映画は1ヶ月に1本という今では考えられないくらいのスピードで封切られていたそうです。

このことから吉永小百合さんは若い頃は浜田光夫さんと顔を合わせない日はなかったのではないでしょうか。

この時は吉永小百合さんが女優して最も輝いていた時期だと言われています。

もちろん今も輝いでいますよ!

吉永小百合と浜田光夫のコンビが解消したのは1966年

吉永小百合さんと浜田光夫さんの純愛コンビにも終わりが訪れます。

1966年『愛と死の記録』での共演が決まっていたのですがこの年の7月に浜田光夫さんが先輩俳優と飲みに行った際、先輩が酔った客にからまれ、電気スタンドで殴られると、その電球の破片が浜田さんの目を直撃。

すぐに病院に運ばれたのですが眼球を摘出するほどの重病だったそうで浜田光夫さんは「なんとか目を残してほしい」と懇願し失明は免れています。

ただ演技としては浜田光夫さんは目で訴える演技が持ち味だったためこれが出来なくなってしまいました。

そのことが原因で吉永小百合さんと浜田光夫さんのコンビは解消となってしまいます。



吉永小百合は20代の頃に清純派女優から大人の女優にチェンジしている

吉永小百合さんが入社した『日活』は1960年代後半になりヤクザ映画やポルノ映画に路線を変更したことにより清純派女優の吉永小百合さんは映画からテレビドラマにシフトチェンジしています。

そんな中、吉永小百合さんは1973年、28歳の時にディレクターの岡田太郎さんと結婚し活動を停止しています。

その1年後の1974年にテレビドラマ『下町の女』で復帰し1975年の映画『青春の門』で映画復帰をしていてここで大人の女性としての演技を披露しています。

これまで清純派女優として活動していた吉永小百合さんは20代になり結婚など様々なことがあり大人の女性としての演技を披露しシフトチェンジしています。

1980年には映画『動乱』で高倉健さんと共演していてここでも妖艶な演技を披露しています

10代の頃は清純派、20代の頃から妖艶な女性。

吉永小百合さんは若い頃から様々な演技をしていることがわかりこれだけの大女優になっているのも納得がいきます。

吉永小百合は今も昔も可愛いと絶賛されている

吉永小百合さんは若い頃から様々なことを乗り越え今、日本を代表する大女優になられています。

そして現在(2020年)70歳を超えていてすでにお婆ちゃんとも呼ばれる年齢ですが昔と変わらず「可愛い」と言っているファンもいます。

確かにそうですよ。

70歳を超えていてこの妖艶な感じは中々出せませんよ。

これは若い頃から様々な役を演じその時その時で全力で取り組んでいる吉永小百合さんだからこそです。

これからも変わらず可愛くて美人な吉永小百合さんでいてほしいですね。



Pocket

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)

Copy Protected by Chetan's WP-Copyprotect.